1年のうち、一番多くの日本人がそろって夜空を見上げる日。
久しぶりに訪れた事務所には、こぶりの竹が一本、廊下をほぼ占領して立てかけてあった。
薄い緑の葉は鮮やかな飾りやたんざくに彩られて、誇らしげにさらさらと揺れている。
その突拍子な派手さ加減に、俺は浮いたお祭り気分になって、笹を目の前に我知らずにやける。
「俺もこれなんか書いていい?」
「いいですよ〜」
飾付けをしていたスタッフが、ペンと淡い色のたんざくを2、3枚渡してくれる。
鼻歌混じりに、何を書こうかと、すでに笹にぶら下がっているたくさんのたんざくを物色していると。
ふと1枚だけ、目に止まった、ピンク色のたんざく。
黒いどでかい字で「今年こそ免許をとれますように」、「アメリカンドリームをつかめますように」、などと書かれた札に混じって。
そのピンクの札だけは、白紙のままだった。
何も書かれていないたんざく。
俺はそれに、どこかで見覚えがあるらしい。
淡い緑に囲まれた、まっさらなピンクのたんざくは、ゆらゆらと揺れる。
目に映るその風景は、たしかに過去の記憶とつながっていて。
―――いちばん大切な願いごとは、心の中にしまっとくねん。
「あ」
思い出した。
十数年前の、あの幼馴染みの言葉を。
「けーーーんちゃ〜〜ん!」
やたら間延びした呼び声を背中に受けて、俺はのぞくように背後を振り返った。
そこには、予想通り、小さい体で精一杯手を振りながら駆けてくる、幼馴染みの姿。
追いつくまで待ってやると、テツは、はぁはぁ息を切らしながらも頬を紅潮させて俺の横に並んだ。
「昨日なぁ、おとんと5号線まで行って、でっかい竹とってきてん。今年もたんざくかけに来てな!」
「お〜お言葉に甘えさせてもらうわ。」
俺がにーっと笑うと、テツもに〜っと笑い返してくる。
絶対やで!叫びながらまた走って行ってしまったテツの後ろ姿を手を振りながら見送って、俺は夕焼けの空を大きく眺めた。
今日の関西の天気は、くもり。
おりひめとひこぼしは、無事に天の川を渡れるんやろか。
見渡せば、金木犀の並木からは緑の笹がのぞいていて。
俺の家は昔から七夕を祝う習慣はあまりなかった。
記憶にないほど小さい頃には何度かうちの軒下でも笹の葉を眺めた覚えがあるのだが、小学校も高学年になるともうお目にかかることはなくなった。
したいならすれば、と親に言われ、1度姉が願いごとを書いたたんざくを窓辺に洗濯バサミでぶら下げていたが、あまりにその風景がいただけなくて、すぐに撤収したのはつい一昨年のこと。
そんな環境だったからか、俺は別にそれほど七夕という行事を重視していなかったが、幸か不幸か、俺にはなんともおせっかいな幼馴染みがいるのである。
というわけで、子供ながらに小さな願かかった俺の字を載せたたんざくは、毎年テツのうちの笹にぶら下がっていた。
そこかしこの窓から美味しそうな夕食の匂いが漂ってくる時分、夕闇の中、俺は引き出しの奥に眠っていたたんざくを数枚とおかんに言付けられた袋をつかんで、人っ子1人いない団地の中をぶらぶらと進んだ。
きょろきょろ見回してみると、やはり小さい子がいる家の庭には、どこにも細い竹が並んでいた。親子そろってたんざくを書いている姿は、なにやら微笑ましい。
団地の道路を斜めに突っ切れば、くすんだ赤色の屋根の家が現れる。
勝手知ったるテツの家、俺は遠慮なしにそのまま庭へとずかずか入っていった。
玄関の扉近くになんも前触れもなく唐突に竹が立てかけてあって、揺れる笹の下には、折り紙でかざりを作っているテツと、それを手伝っているテツのおかあさんの姿。
テツのおかあさんは、俺に気付いて、にこっと笑った。
テツが母親似だと確信するのは、こうゆうときである。
「あっ、けんちゃんや〜〜!」
母の視線を追ってこっちに気付いたテツが、作りたての飾りをぶんぶんと振り回す。
俺は小さく会釈して、2人のほうへ寄った。
「こんばんわ。」
柔らかく笑うテツのおかあさんは、いつもこざっぱりとした美人。
「こんばんわ〜。これ、オカンが、もらいもんですけど、って。」
「あら〜、ありがとう。美味しくいただきます。」
言付けられていた袋を渡すと、おばちゃんは中をのぞいてもう1度俺に笑いかけると、その袋を持って玄関の奥へと姿を消した。
俺はそれを見送ってから、あらためて眼前にそびえたつ竹を見上げた。
その竹は一般家庭としては少し大きめで―――やることなすことなんでも豪快なテツのおとうさんらしい竹だが-――、視界を埋める薄緑の天蓋には、すでに色とりどりのたんざくが降り注いでいる。
「今なぁ、ちょうど飾り作りよったとこやねん。けんちゃんもたんざく書いたらぶら下げてな。」
「これ以上まだ飾りつけるつもりかいな。」
お互い顔を見合わせて笑って。
そしてすぐにテツは飾り作りの作業に戻った。よっぽど熱中しているようである。
とりあえず俺もテツに並んで、縁側の板張りの上でたんざくを書き始めた。
「な〜〜に書こっかなぁ〜〜」
握ったペンをぶらぶら揺らしながら、「書くことないな〜」などと呟いていると、横でたくみにハサミを動かしていたテツが、呆れた表情でこっちの手元を見てくる。
「夢がないなぁ、なんかあるやろ〜?願いごとのひとつやふたつ。」
「ん〜、『字ぃ上手くなりますように』?」
「それ去年も書いてたやん。」
しかもそれあんまり真剣に願ってないやろ?と言われたので俺が正直に「うん」とうなづくと、テツは思いっきり吹きだして笑った。
「欲ないねんなぁ、俺なんかもう何十枚と書いてんのに〜」
「マジでぇ?てつの見ていい?」
いいよ〜という応えが返ってくる前に、俺はすでに立ち上がって、笹の葉に吊るされたたんざくを眺めていた。
赤、水色、ピンク、黄色、紫、白。
薄緑の空に広がるそれらはまるで緑の空に架かる虹。
天真爛漫に描かれたテツの願い札に混じって、ちょびちょびと、おじさんやおばさんが書いたのであろうたんざくも見え隠れしている。
「・・・ん?」
あきらかに不審に思って、俺は位置を変えてもう1度その笹を見上げた。
ひらひらと風に舞いながら、どう見ても裏も表も真っ白なたんざくがひとつ。
ひときわ目を引く、ピンクのたんざくだった。
「てつぅ〜」
「なにぃ〜?」
「来て来て。」
言いながら手招くと、熱中していた折り紙切りを1度中断して、テツが素直にこっちにやってくる。
「なになに?」
「あれ、あのピンクのたんざくさぁ、なんも書かれてないよ?」
大きな竹の、かなり上部にぶら下げられたそのたんざくを指差して俺が言うと、となりに立ったテツは、あ〜、と小さく声を漏らした。
「あれなぁ、あれが俺の一番大切な願いごとやねんよ。」
「は?なんも書いてへんのが?」
視線をたんざくからテツへと戻すと、そこには満面の笑顔の幼なじみ。
楽しそうに笑いながら。
「いちばん大切な願いごとは、書かんと、心の中にしまっとくねん。」
空に浮かぶ白紙のたんざくを見上げて、テツは目を細める。
「いちばんの願い事は、たんざくに書かんほうが、叶う気ぃせぇへん?」
俺は思わず呆然と空を振り仰ぐテツを凝視していた。
たまにこの幼なじみの言う事は、俺の想像を簡単に超えてしまうのである。
「・・・そんなん考えるん、てつぐらいやわ。」
「ありがとう〜」
風に揺られてピンクのたんざくは、優雅に宙を舞っていた。
一通り飾り終わった笹を縁側に腰掛けて見上げてみると、鬱蒼と茂る葉のところどころが赤や水色に彩られて、夜空を華やかに飾っている。
空に突き出したてっぺんあたりには、テツのピンクのたんざくと、俺の「生涯現役」と書かれたオレンジ色のたんざくが、並んで風に踊っていた。
「けんちゃんスイカ食べる〜?」
「あー、いただきますー。」
テツが盆に真っ赤なスイカを4切れ載せて、縁側に置いた。
願いがかかったあのたんざくのように、テツと俺も並んでスイカにかぶりつく。
冷えた感触が心地よく喉に通った。
さらさら さらさら。
風に吹かれて揺れる笹が、飾りとたんざくとともにさらさらと美しい音色を奏でる。
その後ろには、薄い月がくっきり輝いていた。
「さーさーのーはーさーらさら〜、のーきーまーにーゆ〜れるー♪」
自分で仕上げた笹の葉を眺めながら、テツが調子外れに歌い出す。
俺はその歌をバックミュージックに、スイカを食べながら月を愛でていたのだが。
「おーほしさぁまーきーらきら〜、きーんぎーんざいほー♪」
「待て待て、ちょお待って!」
聞き捨てならないその歌詞に俺がストップをかけると、上機嫌に歌っていたテツは、なによ〜という顔でこっちに振り向く。
「『金銀財宝』はちゃうやろ、どう考えても。そんな歌どこで習てん。」
「え〜?学校で習わんかった?」
「習ってへんよ、そんな世俗にまみれた歌詞は!」
どうやら本人は真剣そのものらしく、小さく首を傾げて疑問符を浮かべている。
「じゃあなんなん?ほんまの歌詞は。」
質問を返され、思わず俺は黙り込んで。
「・・・きーんぎーんブラボー?」
「そっちのがちゃうやろ!絶対!」
腹を抱え、テツは転げまわって爆笑した。
笑いすぎや!と俺が言ってもまだ、テツは縁側をべしべしと叩いて1人大笑い。
その後10年近く、その話は毎年7月7日、内輪で掘り起こされてはネタとなった。
「あほな話やなぁ、考えてみれば・・・」
事務所のこじんまりとした笹の葉を眺めながら、俺は思わず小さく笑っていた。
横にいたスタッフがいぶかしげな視線を向けてくるのを無視して、さて何を書こうかともう一度思案にふける。
と、そこへ唐突に。
「さーさーのーはーさーらさら〜、のーきーまーにーゆ〜れるー♪」
調子外れなメロディーとともに、ガスガスという足音。
ぎくりとして俺は、こっちへ向かってくるその音の主へと視線をやった。
「おーほしさぁまーきーらきら〜♪」
ぴんぴんはねた目立つ髪、厚底のクツ、男のくせにやたら高音な歌声。
リーダー・テツの登場である。
「きーんぎーんブラボ〜〜〜〜♪の日やな、ケンちゃん★」
「おまえまだその話ひっぱるか〜〜〜」
にやーーーっと、あのころとは似ても似つかぬ邪悪な笑みを向けられて、俺は思いっきりガクーっとその場で脱力した。
もはやこのリーダーにはかなわない。
上機嫌のテツは、嬉しそうに俺の手元のたんざくをのぞきこんでくる。
「たんざく何書いたん〜?」
「まだなーんも。」
「なーんやねん〜、ケンちゃん全っ然成長してへんなぁ〜」
「それゆーたらテツもやろ〜!」
またテツが高らかに笑い出したので、俺はびしっと笹にかけられた白紙のピンクのたんざくを指差してやる。
テツはやっぱり笑っていて。
欲張りは幸せつかむんが上手いねんで?
一番大切な願いが込められたそのたんざくを眺めながら、にやりと笑んだテツの顔を見ていたら、俺はむしょうにスイカが食べたくなった。
願いのこもったたんざくは。
今年も月浮かぶ空を鮮やかに飾るだろう。