宵っ張りの海に酔う。
夜中、帰途につこうと路上駐車していた車に乗り込んだら、車のキーをどこにしまったかすっかり忘れてしまって探すこと数分。
ようやくカバンの中から発見してエンジンをかけたまさにその時。
コンコン。
「運転手さ〜ん。」
声に振り向くと、道に面した側の後部ドアの窓を叩く男がひとり。
人懐っこい笑みを浮かべるその顔に、見覚えはない。
「誰ですかアンタ。」
「開けて開けて。」
窓は閉めきってるので声は届きにくかったと思うが、俺の率直な質問に対して、男は手でパワーウィンドウを下げるように伝えてくる。
とりあえず窓を10p程度開けてやる。と。
男は笑顔のままその隙間に腕を突っ込んできて、器用に後部ドアのロックをあけてみせた。
唖然としているうちに彼は鼻歌混じりにドアを開け、何も置いていない後部座席にごろり。寝転んだ。
ただの酔っ払いかい、と思って自分とあまり年の変わらなさそうな、しかし笑顔は子供のように無邪気なその男を睨む。
「ちょっとあんた、俺タクシーじゃないんだけど。」
「運転手さ〜ん、どこでもいいから行ってくださーい。」
言葉通じず。
男はひらひらと手を振っている。
「オイこらこの酔っ払い、警察に突き出すぞ。」
いい加減キレかけて、無表情に言い放つと。
彼は。
幸せそうに笑って。
「俺ねぇ、海が見たいー。」
「・・・・・・・。海か、よし、連れてってあげる。」
そのまま東京湾に沈めたる。
やや本気で心の中で呟いて、俺は得体の知れないこの男を乗せたまま、車を出発させた。
後部座席の酔っ払いは、歌まで歌って上機嫌である。
夜中ということもあってほとんど車も通っていない車道を走ると、20分とかからず、案外と簡単に沿岸部へ出た。
海がこんなに近いとは。ちょっとした発見だった。
砂浜近くに車を止めて浜に下りると、眼前の真っ黒い海が両腕を広げて俺と酔っ払いを迎え入れた。
水面に揺れる、半月。
「うわー、海や―〜っっ!!」
俺とは異なった言葉をしゃべるこの男。
いったい何者か。
バシャバシャバシャッ
「運転手さんも来ぃや〜、波が気持ちい〜でー」
気付けば膝まで海に浸かって、男が嬉しそうに手を振っている。
車をバックに浜で腕組んで立っている俺と、黒い波間で水飛沫を上げて遊ぶ男。
まるで年代物のトレンディードラマのよーではないか。
こんなドラマあったらヤだけど。
「こんな寒いのに夜中の海入ってアンタ馬鹿か。」
寒風を受けて髪を揺らす俺がそう言い放つと、男は。
「うん、そーやねん、俺かなりの馬鹿らしいわ〜。」
どこか浮世離れした笑みを浮かべ。
ようやく砂浜に上がってきたと思えば今度はそのまま浜に座りこんだ。
黒い海の遠くにぽつぽつと浮かぶ、光を目で追って。
「どんだけマジメに働いとってもさぁ、1年に1回はこーやって道草食いたくなるもんやろー」
その横顔はとても酔っているように思えぬほど醒めていた。
「大丈夫、明日の朝になったらぜーんぶ元通りやから。俺とアンタも他人に戻る。」
笑いながら呟いて、男は砂にまみれたポケットを探り、くわえたタバコに火をつけた。
夜の闇に、白煙が混じる。
海の鼓動が響いた。波が呼吸を繰り返し、男の足を捕らえようと無数の手を伸ばしてくる。捕らえて、引きずり込んで。
俺は男の背後に立った。彼は俺に背中を向けている。
完全な無防備は侵し難くて。
男は夜の海を眺めていた。
「あんた一体何者?」
男の後頭部に突き付けた、海よりも黒く冷たい塊。
俺の車の後部座席に置き去りにされていた、コルトパイソン。
男は夜の海を眺めていた。
くわえタバコを指にはさみ、背後に立つ俺を振り仰いでちょっと笑った。
「そんな疑わしい男を海まで連れてきたお兄さんも十分何者って感じやで?」
笑みを浮かべるその顔は、ただの酔っ払いのようで。
俺は小さく息をつくと、男の横に腰を下ろした。再びタバコを口にくわえた彼に、冷たいコルトパイソンを手渡す。
「これであんたを殺して東京湾に沈めれたら楽だったのに。」
「至近距離で撃ったらBB弾とはいえ気絶するんちゃうかなぁ。やってみる?穴開くかもよ。」
海を見ながら真剣に呟いた俺の顔を覗き込んで、男は楽しそうに笑ってそのモデルガンを弄んでいる。
遠慮しとく、と言って頬杖をつくと、彼はそれをジャケットの懐にしまった。
男から一本タバコを拝借して、俺も闇に向かって白煙を吐き出した。
あとはただ海と月と砂浜と。
俺と隣にいるこの酔っ払い。
それだけ。
海の呼吸を全身に感じながら。
俺は海の向こうに沈む光を追うことに熱中した。
闇と海のやさしさを知った夜だった。
「俺も今度やってみるかな。」
「なにを?」
「『運転手さ〜ん、どこでもいいから行ってくださーい。』」
見知らぬ男と道草食ったあの夜は。
闇と海のやさしさを知った夜だった。
穏やかに生きるために押し殺しているものを解き放つ夜だって、時には必要なのだから。