ノー・バッターアウト
自分から誘った女と小さなバーに入って20分。
どうしようもなく女の下品な笑い声がうっとおしくて、1人で酒をあおり続けた。
酔いがまわっていい加減頭も痛いが、女の神経に障る声を聞くよりは耳鳴りの方がマシ。
酔っ払っているのに普段より冷めた自分の思考回路が、今だけはありがたかった。
「ねぇ、あたしの話、聞いてる?」
ちっとも女の方を見ない俺の視界に、1人しゃべりつづけていた女が精一杯身を乗り出して割りこんでくる。
化粧臭い。
傲慢な赤いルージュが不機嫌に歪んで。
町で見かけたときのあの凛と艶やかな女は一体誰だ。
「聞いてるよ。」
東京弁も慣れたつもりだが俺にはまだ独特のイントネーションが残ってるらしく、女はまた絹を裂くような笑い声を上げた。
頭痛い。
なんでこんな女と俺は酒を飲んでるんだ。
ちらっと女に目をやると、不吉な笑みに赤い口唇を歪め、やけに甘ったるい目つきで俺を見ていた。
まるで客を食おうとする水商売の女。
「ねぇ。あたし酔っ払っちゃった。」
酒全然飲んでへんやん。
水で酔えるんかアンタは。
押しつけがましく寄っかかってくる女から酔いを吹き飛ばすようなキツイ香水のにおい。
ラベンダーの匂いの濃度を高くしたら排泄物の臭いがすることを、この女は知らないのだろうか。
「出よか。」
もたれかかる女の肩をゆっくりと払い除け、とりあえずバーから脱出。
お気に入りの店だったのに、嫌いになりそうだった。
店から出てもしつこくすがってくる女が、俺の首に両腕をかけ顔を近づけてきた時点でついに俺のリミッターも限界。
堪忍袋の緒が切れた、というよりは、もうただこの女の頭にレンガでも叩きつけてやりたい気分。
そしてそれさえも面倒くさい。
わめく女を捕まえたタクシーに無理矢理押し込んで、さっさとオサラバした。
見る目のない自分に辟易しながらも、たった1人でそのまま近くのバッティングセンターへ。むなしくバットを振りまわす。
行き場のない心地が、空回り。
夜にいい年した男が1人でなにやってんねん、と自分ツッコミもいいところだが、周囲には意外と多くの会社帰りのサラリーマンが、やはり持て余した情熱でバットを振り回していた。
明日の日本を支える男たち。
夜に1人バットが空回り。
マシーンから飛び出してくるのはあまりに豪速球で。
昔テツが持ってたピッチングマシーン並みだった。
当たらないまま只バットを延々振り回していると、普段使わない肩の筋肉が悲鳴を上げだした。
このままずっと空回りしつづけたらどうなるんやろか。
骨が肉と皮を引き裂いて、血しぶきが上がるんでしょな。
ちらっと隣りのボックスを見やると、やはり会社帰りらしい40くらいのオッサンが、腕まくりして滝のように汗をかきながらバットを振り回してた。
ボールは当たらないまま。
ストライクもボールもない。バッターはアウトにはならない。
代打もいない。
只明日に向かってバットを振り回すだけ。
ベンチにいたんじゃホームランもヒットも打てへんよ?
ノーヒット・ノーランなんて、悔しいやんか。
なぜかちょっと楽しくなってきて、1人笑いしかけたその時。
隣りのボックスにいたオッサンが、唐突に腰を低く落とした。
カキンッ
「あ・・・」
左中間に転がるボール。
オッサン、ナイス・バントや。
オッサンはそれで満足したのか、やたら嬉しそうに笑ってボックスを出ていった。
上着を手に持ち黒カバンを提げ去っていくその後ろ姿は、なんかかっこいい。
空回りする日々の情熱を。夢を、願いを。
打率はいつだって限りなく0%に近くたって。
ボックスに立てば、無限の可能性。
さ、明日も一日がんばろか。