実はこれは前々から彼自身でも気づいてはいたのだが。
最高の怒りに達した時―――呆れることも、蔑むこともすべてを越えた時。
彼はいつも、にやりと、唇を邪悪に歪めるのだった。
眠りによせて
朝から機嫌が悪いのは察知していた。
しかしそれは決して、長年の付き合いからくる勘、だけではない。長年の付き合いから得た知識、いわば彼の習性からくるものだった。
察知していた、とはいっても、朝から今まで彼とは一度もしゃべっていない。
それこそが、不穏のしるし。
彼は昔から、―――そう、お互いの認識を超えたはるかに昔から、機嫌が悪くなったり怒っているときはまったくの無口になる習性があった。
もっとも大部分の人間は、機嫌が悪い時は無口になったり態度が悪くなったりするものなのだろう。
ただ彼の場合は、それが尋常ではないのだ。
普段からわりと話好き、という面もあいまってか、彼が無口になるとかなり怖い。常日頃は笑顔に歪む顔が、きれいそっぱり何の表情も出さないのである。
しかも今日はかなりの重症のようだった。
席についてから右腕を机の上に存外に放りだし、腰を深くイスに沈めて、じっと斜め右前方を見つめている。口にくわえたタバコには、火さえついていない。たまに指にまとうシルバーリングが、机に当たって硬質な音をたてるだけだ。
会議に参加する気がないようなので、しばらくは放っておいたのだが、ついつい一瞬チラッと彼に目をやった。それがいけなかった。
会議の中で落ちた一瞬の沈黙。所在無くて思い出したように彼の方を見た、本当にただの一瞬だったのに。
足も腕も視線さえもなにもかも放りだし、ただ一言も発しなかった彼が、あろうことかその瞬間、タバコをくわえた唇をにやりと歪めていたのだ。
呆気にとられた一瞬のうち、彼の笑みは消えた。その瞬間、再び時が動き出したかのように、会議も進む。
新しい発見だった。じっと彼を観察しつづけた。生物実験室で、顕微鏡をのぞきこんで一片の微生物も見逃さないように。
それはまさに新しい発見だった。普段は見えもしない彼のインナー・スペースを少しだけ垣間見れたのだ。
無口になる。タバコを吸わなくなる。なにもかも放り出す。ここまではパターン通り。
しかしあの邪悪な一瞬の笑みはなんだ。それこそは彼の怒りの最上級。インナー・スペースの最高点。
―――センパイ、今ひま?どっか遊びに行こか。
仕事中でなければ今すぐにでもあの懐かしい学生時代に戻って彼を連れ出したかったのだが。
子供独特の無邪気さとワガママをフル活用。大学受験真っ最中でも、気に入ったバンドがいれば大阪のライブハウスまで連れまわしたっけ。
覚えてる?センパイ。
あの頃の自分なら無知の無謀さでどこまでもあなたを連れ出せたけど。
けど今は仕事中。
終盤にかかっている会議にパッと意識を切り替えて、完全に意識の中から彼をシャットアウトした。
どんなことでも無責任にやり通せたあの頃とは違う。
やっぱり今は、自分にも他人にも責任を背負う身。良くも悪くも、対外的なことにさえ気を使って日々を過ごすのだから。
じゃあ、そうゆう感じで進めましょか。
軽い一言とともに会議は終わる。みんながバラバラに立ちあがって、思い思いに部屋を出ていった。
スタッフの人らと軽く談笑して、ようやく置き去りにした彼の方に再び顔を向けた。
なにもかも放り出して座ったままの彼は―――
いつのまにか、意識さえ手放しているようだった。
・・・フツー会議中に寝るかー?
くわえていたタバコは机にぽつんと転がっている。
連れ出す必要はなかった。
自分が少し大人になったのと同時、彼も自分のことぐらいは自分で消化できるのだ。当たり前のことだった。当たり前のことなんて、この世にひとつもないんだとよく自分は常日頃思っていたが。
そもそも彼は、十分に聡い。
放っておくか起こすかしばし迷ったすえ、会議をほぼすっぽかした罰として、彼を残して会議室のドアを静かに閉めた。
カチリ。
その後ほぼ半日、彼は行方不明になったまま、ようやく夜にスタッフによって発見されることとなった。